天才は、最初から天才だったわけではない。
倪海厦──後に五術を極め、医界を揺るがす人物となる少年は、家族の期待と偶然の出会いの中で静かに芽を出し始めていた。

こんにちは、李哲です。
本ブログでは、倪海厦(ニハイシャ)先生の治療例をたくさん翻訳しました。どんな先生かを知らない人が多いので、今日は私が尊敬するニハイシャ先生の生涯を紹介します。年代別の活動記録、著名な占い話も何件かあります。全文が2万5千文字になるので、5回に分けて発表します。
参考文献は倪海厦个人资料及简介介绍
倪海厦先生の個人資料および紹介
倪海厦先生は高校で周左宇に師事して中医学を学び、入隊後は「馬祖の神医」と呼ばれ、退役後は占いを生業とし、最大の胡関宝事件を指摘し、台湾で最も有名な命占の先生となった。
そのため、当代ではまれに見る【命・相・卜・山・医】の五術を兼ね備えた世に類のない奇人と称された。代表作は『天紀』と『人紀』である。
1994年に『天紀』を完成した。『天紀』は易経の原理を用いて宇宙を説明し、内容には八字・紫微斗数・風水地理・面相などの命理が含まれる。皆がよく知る<金城武>はその中の学生である。
2005年から「人紀」の訓練を始め、その内容は中医学五大経典を解釈するものである。治療効果が優れていたため、多くの西洋医学が不治と認めた病を治したことがあり、アメリカの人々および州政府から深く認められ、患者からは統一して「最後の希望」と呼ばれた。
一生を通じて中国千年の易経と中医文化を伝承することに尽力し、千年の伝承を束縛から解き放とうとした。2012年1月31日、有名な中医師倪海厦は長期の夜更かしと過度の疲労により、睡眠中に逝去し、享年59歳であった。
李宗恩博士が語る倪師の逝去の原因は「疲れ死(過労死)」
倪師母が皆への公開書簡:
有名な中医師倪海厦先生は先日睡眠中に逝去し、辛卯年辛丑月辛卯日に仙逝した。2012年1月31日に亡くなり、享年59歳。
李宗恩博士1は言う:
「中医がそんなにすごいのに、なぜ自分が亡くなるのかと不思議に思う人がいる。人が生命を理解するには、少なくとも二つの方式がある。
第一の方式は、自分がよく過ごし、自分が健康で長寿すること。老中医が105歳まで生きると、人はあなたが養生していると思う。養生は重要だが、養生すると多くのことができなくなる。早く寝なければならないからだ。私はよく人に言う、11時前に寝る必要があると。これは少数の人しかできない。
第二の方式は、どうせ人は皆いつか去るのだから、私は全力でやる、というもの。人は皆多くのことができる。倪海厦先生は長年、学生を教えるため、よく私とMSNでチャットした。私は12時開始、倪海厦先生は3時。私は2時過ぎにはもう無理だが、先生は5時。しかし先生は一度も寝なかった。
だが倪海厦先生は、一日たりとも8時30分前に診所にいなかったことはない。
先生の唯一の娯楽はギターと暴走(バイク・車)であった。

実際、学生を教えるだけでも、メールを返すだけでもどれほどの仕事量か分からない。彼の選択は、自分を燃やし、できる限り夜更かしすることだった。夜更かしが多かったので、基本的には過労死である。
普通の60代でもそろそろ去る頃だ。彼は59歳で去ると他人に隠さず話していた。私の母とも話していた。亡くなる前、数人の古い友人(皆中医院の友人)が、肝臓を検査した方がいいと言い、病院に連れて行かれたが、結果は完全に正常だった。唯一は心肺機能が少し弱いだけで、癌は一切なかった。」
倪海厦先生は神様ではない ― 多くの観点は継承と発揚である
倪海厦先生に最も深く影響を与えた人物は四川の名医:唐容川である。これは倪海厦先生本人が語った。現在市販されている『唐容川医学全書』には唐氏の多くの著作が収録され、その中には『中西汇通医经精义』が収録されている。
この本には多くの西洋医学の生理解剖図が描かれており、しかも100年以上前の図である。多くの人はこれを大したものではないと思うが、実際には『中西汇通医经精义』こそが倪海厦先生の生理・病理学の主要な霊感の源である。
倪海厦:「なぜ私が日々進歩できるか知っていますか?」
「なぜ倪師は日々新たに、絶えず向上できるのか?毎年会うたびに、また新しい境地である!」と疑問が生じたとき、倪師はまるで弟子たちの心の声を受け取ったかのようであった。
その日、倪師は朝早く白虎ホールに入り、一群の見習い医師に向かって尋ねた。「あなたたちはなぜ私は日々進歩できるのか?私は年々進歩するのではなく、日々進歩しているのだ!」
医学の古典を読むことや医案を研習することを言うのかと思ったが、全く違った。倪師は、毎晩寝る前に必ず三つのことをすると教えた。
- 必ず一つ一つ、自分が一日を通して考えたこと・言ったこと・行ったこと・一言一行・一挙一動を振り返り反省する。患者に言った一言一句に不注意なところはなかったか?患者に処方した薬方・治療方式に、より良い解決策はなかったか?今日の自分の心態・言行に、礼に合わない、道に合わないところはなかったか?
- 決して背後で人の是非を論じない。時間は人を救うために使うものであり、人の是非を語るためのものではない。
- 重症の難題に遭遇し、突破できず、思いが得られないときは、必ず古の聖人に助けを求め、聖人の経典を調べて対策を求め、解決の方法を悟る。
子供のごろ、武術との縁
ニハイシャ先生(1954~2012)
出身地は台湾、7人兄弟の5番目。
倪師は幼いころ、やんちゃでいたずら好きだったため、母親は彼を連れて武術の師匠に弟子入りさせた ― 学んだのは易筋経である。

倪師は幼いころから活発で、学校教育が好きではなく、放課後はよく宿題をせずに釣りに出かけていた。漫画が大好きで、当時、漫画家・葉宏甲が描いた『諸葛四郎』が台湾全土で大流行しており、倪師も非常に気に入っていた。暇なときにはその線描をまねて練習しており、後に倪師が授業で描く図の比例が正確で、線が美しいのは、実はこの頃の経験が原因である。
倪師はかつて、自分の幼少期は調皮捣蛋(=やんちゃで手がかかった)だったと語っている。母親はしつけのために、倪師を連れて師匠に学ばせた。倪師は若いころから、気功・易筋経などの伝統武術を修習しており、後に「人紀」教学の授業の中で、五臓排毒法や文式易筋経もあわせて教えるようになった。
15歳のとき、独学で姉の長年の生理痛を治した
倪師は母に従うことを喜び、母と姉に非常に親しく、料理・洗濯などの家事もすべて非常に熟練しており、一手の麺点(粉物料理)の腕前は、誰もが称賛し、外の店のレベルにも劣らなかった。倪師にとって、母と二番目の姉は、彼に最も影響を与えたと言える。
早年、二番目の姉は長年の生理痛が耐え難く、病院に行くのは恥ずかしくて、当時15歳の倪師に向かって話した:「あなたは何を学んでもそれらしくなる、あなたが姉の生理痛を治してみてよ!」
その後、『医宗金鑑』を一冊買って倪師に渡した。倪師はその中の婦人科編を3ヶ月読み返して一つの処方を作り、姉に渡して話した。「この処方が合っていると思う。飲んでみて。」
姉はその処方を持って、漢方薬局に行き生薬を買って来て飲んだ。なんとこの漢方薬で姉の生理痛を治り、閉経するまで生理痛が再発してないという。姉は非常に喜んでいた。本を1冊買ってあげただけなのに、生理痛が治ったから。
関連記事:卵巣がんの治療比較:漢方薬で寝汗と体がほてる症状は治り、生理痛がなくなって顔色が良くなった。手術・抗がん剤で話す力もなくなり、眠れない・大小便が出ない。
姉が倪師を連れて命占してもらう
生理痛を治したことをきっかけに、姉は「弟には人並み外れた才能があるのではないか」と感じるようになり、彼の将来がどう開けていくのか知りたくなった。そこで寺に参拝して神に伺いを立てたところ、紫微斗数で運命を占える道長と出会う。姉は倪師を連れてその道長に占ってもらった。
この占いが倪師の強い興味を引き起こし、彼はすぐに本を買い込んで独学を始めた。大学時代には、紫微斗数、地理・陽宅風水、面相・手相、鉄板神術、易経の卦占などを大量に読み込み、研究を重ねた。師について学んだわけではないにもかかわらず、五術すべてを身につけ、さらに自分独自の考え方まで悟るに至った。
その後は、占いの盤を読み解く際に臨床の症例を取り入れ、易経の象数を軸に五術を貫いて説明するという独自の体系を築き上げた。倪師はこの学説を「易派象数宗」と名づけた。

コメント